タバコを吸わない自分がライターを買った

平年より記録的に桜の開花が早かった今年(2021年)の春、兄が癌で亡くなった。

兄は私と年が近く、そう若くはないが世間的にもまだ現役と充分認められる世代であり、残された家族にとっても受け入れがたい早すぎる死であった。

突然入った入院の知らせ

兄が入院したのは3月15日月曜日のこと。私にその知らせがきたのは翌日の16日の朝だった。

会社へ向かう準備をしていた朝に突然鳴り出したスマホの呼び出し音。朝に実家から電話が来るのは良い知らせではないのは想像がつく。

両親が高齢であることもあって、その点は日頃から覚悟していたが電話の中身は思いがけない内容。

実の兄が入院したとの話であった。

このとき「おやっ?」と思ったのが、電話をよこした私の母が話す声のトーンと、慌てて朝から伝えなくてはならないことなのかということに疑問があった。

母が朝から兄の入院を兄弟の私に急いで連絡するには理由はあった。入院手続きに保証人が必要なためで、これは考えてみれば特に珍しいことでもない。私が、そういった事情に詳しくないだけだ。

気になるのは母の話し方だ。

兄の体の具合が悪い話は聞いていなかったので、検査入院かなんかだろうと咄嗟に解釈していたので、保証人の件は「午後から会社に休みをもらう」と伝えると、「もう少し早く来れないか」と言う。

朝からイヤな勘が働くが、年老いた両親は私より人生の経験は豊富であることは確かだ。入院する兄の顔色や立ち振る舞いを見て何かを感じたのかもしれない。

こうなると兄の病状も心配だが、入院に至る経過で両親が感じ取った「何か」次第では両親のこと(感じたことによる落胆)も心配になる。

この電話で伝えられた兄の様子から病気は脂肪肝かと思ったのだが、あとで考えれば母が感じとったものは別な悪い予感のようだった。

二人の子を持つ兄のこと

兄は実家で両親と同居で妻と二人の子がいる。

両親と兄夫婦で二世帯6人家族という構成。

既に実家から出て長く暮らしている私から見て、普通になんとか仲良く暮らせている平穏な家族だ。

私と兄は幼い頃から、それほど仲が良い兄弟ではなかった。兄も、たまに私が実家に行っても、「ようっ!」と緊張感のない挨拶を私にするだけで兄弟の私に何か話題を投げかけることは無い。

寡黙とかいうより、そんな事には無関心な性格の持ち主だった。

しかし、そんな兄でも私が自由に過ごしている間、実家を守ってくれていることに関しては多少のありがたさ、感謝の気持ちみたいなものは感じていた。

そして、常々心配だったのは年老いた両親のこと。対照的に兄のほうは何時までも健康でいてくれるものだと当たり前に思っていた。

事実、昔から身体が弱く、よく風邪を引いたり体調を崩していたのは次男の私の方だった。

医師から伝えられた兄の病状

入院の連絡を受けた当日、休みをもらい昼頃に実家に駆けつけたが、そのときは入院に必要な書類へサインしただけだった。

ただ、母の話によれば前日の兄は発熱もあり日常の動作もしんどいほどだったらしい。

その体調不良は突然のものでなく少し前から前兆はあったらしい。病院嫌いな兄は医者にかかるのを強く拒んだという。父もそのことを詳しく私に教えてくれた。

その後、いったん自宅へ戻り夕方になって医師から詳しい病状の説明を受けた義理姉の電話をもらい再び実家へ向かうことになった。(この展開で不安が増す)

兄を除いた残りの5人プラス私が揃ったところで、担当医から渡されたという病状の説明が書かれたA4の紙に皆で目を通すことに。

義理姉と上の子は、直接医師から病状の説明は受けており内容は承知済みでのこと。

その書面に書かれた内容は、兄が末期癌であり積極的な治療による回復の見込みがないこと、今後は現在の症状に対しての処置をしながら、緩和ケアへ移るのがよいだろうということだった。

ステージⅣの肝臓癌である。

両親と義理姉は、ここ最近の様子から覚悟はできていたかもしれない。受け入れられないのは二人の子だ。上の子は成人しているが、社会的にまだ充分な大人とはいえない歳だ。

当然、私も今日一日の急なコトの成り行きと、ソコから容易に想像できる「近く起きること」を受け入れられない

あまりに急なので2、3ヶ月は持つのであろうかと案じたいが、そんなことはギッシリ詰まった文字の中の何処にも書かれていない。

この時点でも、この先しばらくも、「普通の癌患者というのは入退院を何回か繰り返した後に末期を迎えて死ぬのではないか?」と勝手に思いこんだりするが、癌に普通などなくそれぞれによる。

義理姉と上の子が直接聞いていたのは、早ければ余命1ヶ月もあり得る。そして、今の状態からの急変もあるかもしれない。という更に受け入れ難い現状であった。

ここのところ、世に蔓延っている感染症の影響で私は両親の健康に気遣い実家に行くのを避けていたので最後に兄に会ったのは正月だった。

しかし、本来気遣いが必要だった両親ではなく、兄の身体が病魔に蝕まれていた。

医師によれば明確な自覚症状はあったらしい。

本人が医者嫌いだったのが災いしたのは間違いなく、病院へ連れて行った日の前日は発熱もあり食欲も全くなかったらしい。

そして、その二日前までは会社へ出勤し働いていたというのだから驚くしかない。

希望のない入院治療

私たちへの驚きの告知とともに、兄の実際は短いのだが苦悩の長い入院生活が始まった。

本人への告知がどの程度されたか未だ分からないが、聞くところによると入院してから、だるさ息苦しさなどの症状に改善は見られず悪化するばかりだったようで、医師からなんらかの告知があったとしても前向きに受け入れられる状況でなかったであろう。

もし自分が面会できる機会があれば、病状や治療の話は全くしないことを心がけようとは考えていた。

どこの病院もそうだが、医療施設では例の感染症により家族でも面会は難しい状況、兄の入院した病院でも面会できたのは義理姉と上の子だけだった。同居であることが条件だったので、同居していない兄弟である私は面会が困難だった。

義理姉から携帯電話の持ち込みが可能だったということを聞き、兄に電話したのは入院二日後の17日水曜日18:29のこと。

私が電話で話した内容は「頑張りすぎたのだから、しばらくゆっくり休んだ方がいいよ」みたいな内容だった。

兄から返ってきたのは相づちのみ。

ステージⅣの末期癌、緊急入院の状況から話すのも疲れるであろうと心配し、長い話はせず電話を切った。わずか51秒のやりとり、今思えばこのときが一番体力的にも話せる機会だった。

その後に再び電話をしたのは5日後の22日18:10、呼び出し音の後に応答がなかったので電話を切ったら兄から折り返しかかってきた。

私:大丈夫か?
兄:うん
私:テレビとかあるの?
兄:ある

そんな会話をしたが、明らかに前回より「ゼイゼイ」と息が苦しそう。あとで聞いたのだが、このとき兄の鼻には酸素チューブが付けられていたそうだ。

入院して一週間経ったが病状は好転せず本人は苦しそうな様子。

私は、兄弟として兄の症状が全く改善しないまま事態が悪い方向に加速するかもしれない言わば最悪のシナリオを、想定し受け入れることは出来ずにいた。

ただ、入院前の様子を知っている両親、面会が可能だった義理姉らは病に苦しむ兄の様子から覚悟しなければならない事実が近い将来に迫っていることを悟っていたのかもしれない。

その後、兄の酸素吸入はマスクによるものに変わり、私の受け入れられなかった病の進行は想像以上に早かった。

虫の知らせなど無かった

病院の感染症対策は理解できるが、なんとか兄に面会できないだろうか、そんなことを考えながら次に電話をするならしばらく時間を置いて義理姉に様子を聞いてからにしようとも考えていた。

症状の急変が起きることなど頭にはなかった。

事実、医師から今後は他の病院を予約し緩和ケアに移る準備をされては?との話がされたと聞いていたので、そのタイミングで一度は兄の顔が見れるものだと信じていた。

改善することのない兄の病状が更に危険な状態に陥り、通常面会が許されていなかった両親が病院に向かったのは入院から2週間を迎える3月28日(日)の深夜のこと。

日付が変わり29日を迎えた真夜中1:29に兄は帰らぬ人になった。

この日は前日の昼間から風雨が強く、気圧の変化など些細なことも体力が消耗しきった病人には影響したかもしれない。そんな雨の日の夜に兄は息を引き取った。

兄の遺体は深夜のうちに雨の中病院から家に帰り、そこへ出迎えた私は目を見開くことのない兄と正月ぶりの対面を果たすことに。

生き返ることのない少しだけ体温が残った兄の身体は、寝ているだけのようにも見えるが、残された私たちは深い悲しみを受け入れなければならない。

仲が良かろうが悪かろうが、たった一人しかいない、この先も存在し続けるはずの兄弟を私は失った。

前日の夜、寝付く前に兄のことを思い(この日に限らず兄の入院を知らされてからは毎日のこと)虫の知らせなんかもないし、きっと大丈夫だろうと考えながら床についたのを覚えている。

淡々と咲き揃う満開の桜

亡くなった兄と引き替えにか?というタイミングで、朝になり世に姿を現したのは満開の桜だった。

満開のサクラ

天候も前日の風雨から一転した青空が広がる。

いったん自宅へ戻った私も実家と行き来する間に沢山の桜の花を目にしたが、綺麗な桜の花は私を悪く刺激することもなく、そよ風に揺れている。

苦しんで逝った兄のことを思うと花は楽しめないが、沈みがちな私たち家族をそっと支えてくれた効果はあっただろう。

それからのこと、両親や義理姉と子供たちといった兄に近い立場の者以外の都合により、やや遅れ気味に通夜と葬儀の日程が組まれた。

あとは、近い親戚や近所の方など、皆桜の花を目にしながら兄の元へ足を運んで焼香してくれた。

家族の悲しみをよそに忙しく時間は過ぎ、予定通り通夜が執り行われた。

昔、関わりの深かった兄の高校時代の同級生など分かる範囲で連絡を取り兄が亡くなったことを伝え、そのうち通夜や葬儀に来てくれた人が何人かいたが、私が唯一兄にしてあげられたことはそんなことだけだったかもしれない。

そして、通夜と葬儀もこのご時世のこと参列は家族と近い親戚、勤めていた会社の方に限られ、一般の方には焼香の後香典返しを渡すだけですまされた。

わざわざ足を運んでいただいた方に少々申し訳ない感じもしたが、治る見込みがない病を知らされた後に僅かな期間で亡くなった兄のことを考えると、葬儀を身内でひっそり済ますことは無情すぎると私は感じていた。(家族葬にせず良かったという意味)

穏やかな春の日に行われた葬儀

葬儀が行われた日の当日に兄の体は火葬された。

両親を火葬場まで連れて行くのには躊躇いがあったが、その点だけにはあまりに気遣いがないように思えた親戚たちに促される形で両親も火葬場へ行くことに。

炉の中に入れられる兄を見送るとき、私たち家族は形ある兄を失い、それとともに、この世に兄の存在がなくなることを改めて思いしらされた。

その後、葬儀場に向かう車でも私たちは兄の遺骨と共に満開の桜を目にした。

兄の悲しい死は、青空に咲く満開の桜に優しく包まれながら受け入れるべきこととなった。

桜の花

この先のこと、桜の咲く季節に私たちは兄のことを思い出すことになる。

満開の桜に見送られこの世を去っていった兄のことを。

そして残された私たちは、この桜の花に救われたのかもしれない。

通夜や葬儀の日に雨風に打たれてしまったら、義理姉も子供たちも、息子に先に逝かれてしまった両親も傷は更に深かったことだろう。

葬儀が終わり家に来てくれる人も少なくなってくると両親が遺品の整理を始めた。

義理姉も、諸手続があって忙しそうだが、落ち着かないのか衣類などの整理はほとんど済ませてしまっているらしい。

そんななか、私は墓前に線香をあげるためライターを買った。

用途が線香なので、特に上品で優れている訳でもない普通のライターを求めた。

今まで、祖父母の墓参りには飲み屋で貰ったライターなどで線香に火をつけていたが、兄のために新しい普通のライターを買った。

もう、兄の為にしてやれることはない。

線香に上等の火をつけたところで、生きているうちに本人が喜ぶことをしてあげてナンボだ。

しかし、人は家族が明日死ぬこと、病に倒れ会えないうちに亡くなってしうことを心配しながら生活したりしない。

何か強いきっかけでもなければ特別に家族を思いやる気持ちを継続することは難しい。

なら、万が一の時にも自分だけはしっかり生き抜こうと望むことなら割と容易くないだろうか。

兄は子育ての終り間際に他界した。

子供たちが独り立ちできたら、新たな自分探しを始めたかもしれない。ゴルフを楽しんだり、全く別の角度の趣味を見つけたり、あるいは姉と旅行を楽しんだりの時間もあったことだろう。

早すぎる死を迎えた兄は「生ききっていなかった」のではないか。

当然だが、兄がこの世から居なくなったのは悲しいことだ。それに加え、家族にとっての心残りは人生を全うしきれず亡くなったこと。

スタンダールの墓碑に「生きた 書いた 愛した」と書かれているのは有名だが、そんなに格好良くなくていい。

残された家族が「頑張って生ききったかもね」くらい口にするような人生なら上出来ではないか。

もし自分でも意識がある状況なら、「ちょっとは人生楽しめたかな」と省みる瞬間があればそれで充分だろう。

身近な存在である家族だからこそ互いに気遣いできない部分はある。

であるなら、もしもの時のために自分の生き方を大切に心がけることも必要だろう。

最後の時に、自分も家族も「行ききった」人生を全うできたようだと振り返れるように。

そんなコトを思いながら過ごした2021年の春、桜の他にも桃の花や水仙など多くの花が4月の初めに例年になく集中して咲きそろった。

春の花が兄の旅立ちを見守るかのように。